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一番偉い人へ 俺たちは 今 なにをすーるべきかー
心にもどかしい かーたーるしすー
心にもどかしい かーたーるしすー
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「ごはんはうまくて腹持ちがいい。肉と一緒にたべたい。」
by私
by私
どういうことか。題名の通りである。過日電車に乗って色々な考えを巡らしていたら、突如周囲や前方に広がる景色への厭悪感を覚え、前方を視ることができなくなった。視線を水平に保つことに耐えられなくなり、自分の足元ばかりを注視し続けることになった。私は駅のホームで、前方を視ずに、陰鬱な気持ちで自分の足元ばかりをジッと眺めていたのである。そして、そうすることである一つのことに気付いた。走行する電車の目の前へとホームから飛び降りたりする人は、自分の足元しかみていないという一点である。一見、ホームから線路側へと飛び込む場合、人は走ってくる車両を注視し確認しタイミングを見計らい飛び込んでいるのだろうと思われがちだが、実は違っていて、皆自分の足元しかみていないのである。そして、今から自分を轢断するであろう鉄塊の姿を見ることはせずに、音だけを頼りに、いいかげんに前方へと飛び込むのである。何故こういうことになるかと言うと、目に見える大きな鉄の塊に己から飛び込むということは、大変に覚悟の要ることで、通常、人はその様なつよい覚悟を持って自死することは大変に難しく、それほどの覚悟を持つ人間は自ら死のうなどと容易には思わないだろうし、万が一それが覚悟の上でのことだとしたら、それはよほどの強い信念を持った自殺者で、そういう信念を持った人は、残された者に多額の損害賠償問題などが降りかかるであろう飛び込み自殺などはあまり行わないと考えるのが妥当だからである(残された者により大きな損害を意図的に与えようと思うなら別ではあるが…)。そうなると、それほどまでの覚悟なく電車などに飛び込む為には、前方や周囲の景色などには目もくれず、自分の足元だけをみて、電車が来たであろういいかげんなタイミングにふわりと衝動的に飛び込み轢かれるのが、大変に死に易いのである。しかし、それでも私が飛び込まずにこの文章を綴れている時点で、その信憑性を疑われる人も居るとは思うが、実際に電車を注視しながらの場合と自分の足元だけを見ていた場合では、その時の思考の内容が大きく違っていて、前者の場合だと『ああ…電車が来たな。怖いな。飛び込んだらどうなるかな。痛いかな。自分の運転する電車に飛び込まれた車掌さんはどういう気持ちになるかな…。』などと色々な考えが一瞬のうちに巡るのに対し、後者の場合は『あ、こらいけてまうわ。』としか考えなかったからである。この時点で、もはや死ぬことに対する覚悟は半分失われていて、只なんとなく飛び込むだけ。まあ死ぬだろうけどね。程度の気持ちしか頭には無い訳で、死というハードルは大分下げられた状態にあり、その遂行を容易にするのである。なので、大半の飛び込み自殺者は、ホームでは自分の足元ばかりをみている。皆さんも中央線などを利用するときには、ホームに立ち並ぶ人たちの視線の先に注目してみましょう。